信長の妹婿である細川信良(昭元)が有した「権威」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第91回
■時の権力者が利用した信良の「権威」
応仁の乱以降、細川京兆家は管領を独占していたものの、家臣である三好長慶との権力闘争に敗れたあとは衰退していきます。
19代京兆家を継承した信良は、正式に管領に任命されることはありませんでした。
ただし、永禄の変で三好三人衆たちによって13代将軍義輝(よしてる)が自害に追い込まれ、新将軍に義栄(よしひで)が擁立されると、幕府の正統性を示すために、信良は管領のような扱いを受けるようになります。
続いて、足利義昭が信長によって15代将軍となると、偏諱(へんき)を受けて「昭元(あきもと)」と名乗って、摂津国の旗頭とされ、外交官としても重用されました。
信長と義昭が対立してからは、織田政権に協力する姿勢を取り続け、足利将軍家に代わる「権威」付けの役割を担っていきます。そして、信長の妹お犬の方を正室に迎えて、織田家の縁者となり、さらに政権内での価値が高まりました。信良は丹波国の二郡を与えられ、丹波国の旗頭を任されるようになります。織田政権の武威を示した京都御馬揃(おうまぞろ)えにも参加しています。
■「権威」の利用価値の移り変わり
1582年に信長が本能寺の変で斃(たお)された後も、その「権威」は権力者によって利用されていきます。
秀吉と織田信雄(おだのぶかつ)が対立を深めると、信良は信雄方として長宗我部家との連携を図り、反秀吉の動きを見せています。これは信雄との縁戚関係と、細川京兆家が土佐国守護を務めていた点を、信雄・家康陣営に期待されたためと思われます。しかし、連携は失敗に終わっています。
その後、秀吉が権力を掌握し関白になるころには、斯波義銀や赤松則房など室町幕府の名門たちとともに、御伽衆に加えられたと言われています。ただし、この頃には足利義昭も秀吉に従うようになっていたため、信長時代ほどの利用価値は無かったのかもしれません。
そして、1589年に信良は聚楽第での落書き事件に巻き込まれ、斯波義銀たちと共に捕縛されたと言われています。
これは秀吉自身の「権威」を高めるために、名門である信良の家柄が利用されたと考えられています。
■権力者に利用され続けた信良の「権威」
信良が家督を継いだころには勢力を低下させていたものの、時の権力者たちには、足利将軍家に次ぐ家柄が持つ「権威」には利用価値がありました。
しかし、徐々に価値が低下してくると、信良が有する「権威」を傷つけることによって、自身の「権威」を高めるという使われ方がされるようになりました。
現代でも、自身の権力を安定化させるために、他者の「権威」を利用することはよくあり、一方でそれを逆に貶めるという使われ方もよく見られます。
もし信良が一貫して秀吉方として活動していれば、落書き事件には巻き込まれなかったのかもしれません。
嫡子の元勝は、大坂の陣では秀頼(ひでより)の近習として戦い、戦後は織田家親族たちの助命嘆願により許され、妹が嫁いでいる秋田家に迎えられ、その家柄と徳川家にも通ずる縁戚関係から藩主一族の待遇を得ています。
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